嶋原について

    

今やガイドブックにもエリア名として載っている【嶋原】という名前。

実は正式な地名ではありません。

正式名称は【下京区西新屋敷】になります。


<嶋原大門の隣にあるお店にある地名の看板>

看板

では、なぜここが【嶋原】と呼ばれるようになったのでしょうか?


<嶋原大門の提灯>

嶋原大門の提灯

※ここでは【嶋原】と表記しますが、【島原】でも間違ってはいません。

 写真の様に提灯は【嶌原】となっていますし、正式な漢字がないのです。

 上記の様に正式な街の名前ではないので【嶋原】でも【島原】でも良いのです。

 長崎県の島原と区別をつける為に【嶋原】と表記させていただいています。

   

花街の生い立ち

 時は室町時代、足利義満が将軍を務めていた応永4年(1397年)頃、

東洞院七条付近に傾城局が置かれていました。

この頃は相次ぐ大乱、不安定な政治状態で幕府の財政は危機的な状況であり税を徴収する為には

手段を選べなかったと言われています。

又、微税ながらも財政を補えるほど妓女や遊女を扱う屋方や娼家が乱立していたとも言えます。

しかし、この時点では『遊里』として形成を持つまでにはいたりませんでした。

実際、いつ頃に発祥し、どの様な状況だったか等は不明な点が多く、詳しい資料はありません。

そして、京は1467年「応仁の乱」が勃発、戦国時代を迎え戦火にのまれていく事となります。

それに伴い、娼家も絶えることがなかったと思われます。


   

豊臣秀吉の天下統一〜花街の誕生〜

 豊臣秀吉が天下統一を果たしたことで一応の落ち着きを見せた京の都。

しかし、数々の戦火に塗られてきた為、荒れ果て盗賊なども出現したと言われています。

秀吉は日夜頭を悩ませ、常々こう言っていました。

「どうしたら、再び都は繁栄を取り戻せるのか」

「誰でも良い。心に思う事があれば申せ」と…。

ある日、秀吉が万里小路付近を通っていた時、秀吉に仕える原源三郎衛門が

「私の様な者が申し上げるのは恐れ多い事ですが、京中の遊びという遊びを一ヶ所に集めると

自然と人が集まり、賑わうのではないのでしょうか」と進言します。

秀吉はその案をすぐに取り入れ、原氏は花街形成にとりかかりました。

原氏は【柳馬場】と言われた町を整備し、天正17年(1589年)【柳町】として日本初の

公許花街が誕生します。

その際、町中を三筋に分け「上町」「中町」「下町」とし、格子、暖簾、などの商いの店や

料理屋なども立ち並び、ここに今日も続く『遊里』(今でいう花街)が形成されたのです。


   

花街を作った意義

花街とは現代でいうテーマパークの様な所。

そこでは老若男女問わず遊び、楽しむことが出来ます。

そして、花街の外へ一歩出ると現実世界に戻り、自分たちの生活や仕事へと戻ります。

その時、皆「さあ、また仕事を頑張るか」「またここに来るために仕事を頑張ろう」という

前向きな気持ちが生まれるのです。楽しみがあれは仕事への活力も沸く、

それは現代でも言える事です。原氏の狙いはそこにあったのでしょう。

そして、秀吉もその意味をすぐ理解したのではないでしょうか。


   

柳町の移転〜三筋町へ

 慶長7年(1602年)、徳川家康の時代になり二条城の造営に伴い柳町は移転させられます。

移転先は【六条西洞院】です。ここは北から「上之町」「中之町」「下之町」と

三筋の小路があったことから【三筋町】と呼ばれます。

ここで花街は急速な充実と発展をさせていくことになります。


   

突然の移転〜嶋原の誕生

 三筋町での繁栄は多数の名太夫を生み、公家の出入りからもその繁盛振りが伺えます。

しかし、この太夫の御所への出入りが、ある日事件へと発展します。

時の所司代、板倉周防宗重氏がいつも見かける女中の車に挨拶をしていたところ、

それが六条の太夫だと知り、自分より身分の下である者に挨拶をしてしまった事に憤慨します。

そして、街中にある事が問題と考え急遽移転を命じます。

移転先は一面田んぼの【朱雀野】、急な移転命令にも関わらず移転期間は短く、

皆大慌てでした。そして、その状況がこれより数年前に起きた九州で起きた

「島原の乱」を思わせたことから、この移転先が【嶋原】と呼ばれるようになったのです。

町の中は「上之町」「中之町」「下之町」「太夫町」「中堂寺町」「揚屋町」の6町から

なっており、東の出入り口に大門を設け、柳を植え「出口の柳」と呼び、

享保17年(1732年)には西側にも門を設けました。

現在も残る門は明和3年(1766年)にこの位置に移され、大火で焼けてしまった後、

慶応3年(1867年)に今の門になりました。


<嶋原大門>

嶋原大門

昭和61年(1986年)に京都市登録有形文化財に登録されたが、西門は数々の災難に遭い、

現在はもうその姿はなくなってしまいました。


   

嶋原の繁盛と衰退

嶋原の立地条件は決して良い場所ではありませんでした。その為、客数や店格も減りました。

その為、文化2年(1805年)には、洛中への移転を願い出ますが、許可がおりませんでした。

その代わりに、市中の遊女町渡世人から口銭を上納させ嶋原の補助金として定額支給されること

になりました。

しかし、初めのうちこそそれは守られてはいましたが、文化5年(1808年)には現状に応じて

という事になり当初の定額よりも少なくなります。

更に、天保元年(1830)震災に見舞われます。修復費にも困る始末で、今度は祇園新地への

出稼ぎを願い出てます。この願い出に対しては震災損所営繕という理由で仮宅を許可されます。

すると、祇園新地では大変繁盛し太夫道中まで行われ大評判を呼びます。

そして、このままこの地に永住をと願いでますが、ここでも許可は出ません。

そして、再び嶋原へと戻っていくこととなります。

しかし、ここで思ってもいなかったことが起こります。天保12年(1841年)節倹令により

嶋原以外の花街は全て廃絶の命が下ります。嶋原に移転することは許されたので、

他の花街からドット転住があり、店も客足も増加し、またもや繁盛を見せます。

しかし、それもつかの間でした。10年後の嘉永4年(1851年)には廃絶された

4花街が復活を許可され、再び衰微が訪れます。そこに追い討ちをかけるように、

同年8月に大火に見舞われ2町(揚屋町、下之町)を残し全て全焼してしまいます。

現在も尚、当時の建物を残しているのは角屋だけで、輪違屋はその時に一度

焼失してしまっています。


<揚屋だった角屋>

角屋


<現在は置屋兼お茶屋として営業している輪違屋>

輪違屋

単なる遊宴を行うだけではなく、「花街文化」の原点として、数多くの文人、歌人等の文化人が

訪れ、文化を生み出して行った町。しかし、明治以降次第に廃れていき、現在営業しているのは

置屋である輪違屋一軒のみ。資料館になった揚屋の角屋と大門のたった3ヶ所だけが、

当時の面影を残す町となってしまいました。

そして、現代では非常に残念な事に花街であった「嶋原」と遊郭「吉原」が混同されてしまい、

様々な所で同じ表現をされてしまい、多くの方に違う認識で残ってしまっているのが現状です。

「嶋原」と「吉原」の意義は花街と遊郭とで違いますので、まずはそこから覚えていただければ

幸いです。

                                 
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